ザカート・喜捨

ザカートの意味と重要性

ザカートは、イスラームの基礎となる第三の柱です。これは財産に余裕のあるムスリム(イスラーム信者)に対し、至高なるアッラーが命じられた義務の一つであり、その人の財産から一定比率の金銭や現物を支払うことを意味するものです。ザカートは毎年の終わりに、それぞれの人の収入資源と貯蓄の双方に課せられます。クルアーンにも、ザカートについてサラートの務めと同じ章や節にしばしば述べられています。

本当に信仰して善行に励み、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなす者は、主の報奨を与えられ、恐れもなく憂いもない。(クルアーン第2章277節)

これは英知の啓典の微節(印)であり,善行に勤しむ者への導きであり、また慈悲である。礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、また、来世を堅く信じる者たちへの(導きであり慈悲)である。これらの者は主の御導きの許にあり、かれらこそは成功する者である。(クルアーン第31章2~5節)

 このように、サラート(礼拝)は言葉と動作による至高なるアッラーに対する崇拝の行為であり、ザカートは財産による崇拝の行為なのです。アッラーへの崇拝の気持ちがなくては、この二つの行為は精神的な意味を持ちません。

 あるとき預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)のところに、一人の男がやって来て尋ねました。「私を天国に入れる行ないを教えてください。」預言者(彼の上に祝福と平安あれ)はこうお答えになりました。「あなたは至高なるアッラーを崇拝し、かれにどのような同位者も立ててはいけない。サラートをきちんと行ない、ザカートを支払い、親戚と良い関係を保ちなさい。」

 イスラームは信仰とそれに密接に結びついた行ないからなります。クルアーンの中には「サラートを確立し、ザカートを支払え」というくだりが数多く出てきますが、このように精神的行為であるサラートと実際の行動(この場合は福祉)とが密接に結びついているのがイスラームの特徴です。信仰が単なる個人の精神的満足のための信心で終わらず、社会に向かって行動する方に向いているのです。博愛や慈悲の精神による福祉は様々な所にありますが、イスラームにおけるザカートは崇拝行為の一種です。サラートやサウムが体を使って行なう崇拝行為であるように、ザカートは金銭を使って行なう崇拝行為なのです。ムスリムはザカートによって自分の財産を清め、至高なるアッラーの恵みに感謝し、来世への投資とするために施すのです。

 実際には、イスラーム国家がある場合、ザカートの支払能力のある人々からザカートを徴収するのは国家の義務です。しかし、非イスラーム国家では、至高なるアッラーと社会に対するこのザカートの務めは、ムスリム各人の自発性に任されています。したがってムスリム兄弟たちが互いにその務めに注意を促し合っています。

ザカートの精神

   富は至高なるアッラーの恵みです。至高なるアッラーは宇宙の創造主であり、保持者であり、人間が持っているあらゆるものの本当の所有者です。クルアーンでこう語っています。誰が天と地を創造したのか。また誰があなたがたのために、天から雨を降らせるのか。それでわれは、美しい果樹園をおい茂らせる。そこの樹木を成長させることは、あなたがたには出来ない。」(クルアーン第27章60節)

至高なるアッラーこそあらゆるものの本当の所有者であり、私たち人間は富を託されたにすぎないのですから、財産はアッラーの御意志に沿った方法で使うべきです。財産を築くことは、それ自体が目的ではなく手段ですから、正しく使うことを考えなければなりません。また至高なるアッラーへの純粋な信仰のほかに、アッラーから見て最も大切なことは、親切と慈善、忍耐と他人への思いやりであると述べられています。

順境においてもまた逆境にあっても、(主の贈物を施しに)使う者、怒りを押えて人びとを寛容する者、本当にアッラーは、善い行いをなす者を愛でられる。(クルアーン第3章134節)

 このように至高なるアッラーは、創造物に対する謙譲の心、正しい欲求を充たすための中庸の道、煩悩の制御および寛容と博愛の精神を私たち人間に命じておられ、同時に、傲慢、享楽の追求、物質への欲望の追及を控えるように求めておられます。ですから、サラート(礼拝)は心のおごりを清め、サウム(斎戒)は肉体的欲望を制御し、ザカートは財産へのどん欲を克服するためでもあるのです。これらの行ないすべての背後にある本質は、至高なるアッラーへの帰依、至高なるアッラーのすべての恵みに対する感謝、至高なるアッラーの寛容と慈愛への希望です。

特に、財産に余裕のあるムスリムがこのザカートの務めを果たすことは素晴らしいことです。それは、至高なるアッラーからの恵みに対する感謝の気持ちと、他人を助けることのできる喜びです。ザカートを払うことは至高なるアッラーへの務めですから、人はザカートを与えた相手に何かしてやったように考えてはなりません。むしろ自分のザカートを受け取る相手がいることに感謝しなくてはなりません。貧しい者がザカートを受け取るのは正当な権利であり、それを与えることは裕福な者の義務だからです。イスラームの他の信仰行為と同様に、ザカートを与えたり受け取ったりすることは、双方の意図が純粋で誠実でなくてはならないのです。

 

ザカートの効果

     ザカートの道徳的・物質的な効果は明らかです。ザカートを施すことは、その人の財産に対するどん欲な気持ちを洗い清め、貧しい人に対する慈悲の心を育てます。そしてザカートを受けることは、その人の心から金持ちに対する羨望と反感の情を和らげ、彼の心の中に親愛の情を生みます。至高なるアッラーはクルアーンの中でこう言われています。

天と地の凡ての鍵は、かれに属する。かれは、御心に適う者に恵みを広げ、またひき締められる。本当にかれは凡てのことを知り尽される。(クルアーン第42章12節)

かれこそはあなたがたを地上の(かれの)代理者となされ、またある者を外よりも、位階を高められる御方である。それは与えたものによって、あなたがたを試みられるためである。(クルアーン第6章165節)

このようにムスリムは、金持ちであれ、貧しい者であれ、みな現世でどう生きるかを至高なるアッラーに試されています。財力のある者は寛大で慈善の気持ちを持ち、至高なるアッラーから授けられたものをムスリム兄弟に分け与える義務があり、貧しい者は忍耐し、他人を羨んだり嫉妬したりする心を抑えるよう努力する義務があります。来世での人の運命を決定するものは現世での富や地位ではなく、その人の至高なるアッラーへの帰依の心、美しい品性および至高なるアッラーから授けられたものをいかに使うかにかかっています。

イスラームの経済原則は、クルアーンに記されているとおり、富を正しく、そしてバランスよく分配することにあります。

…それはあなたがたの中の,ただ富裕な者の間にもっぱらわたらせないためである。(クルアーン第59章7節)

このようにイスラームでは、富の死蔵と無制限な蓄積を禁じていますが、富の強制的な平等分配も認めてはいません。むしろイスラームは中庸を勧めています。イスラームの教えに従えば、生活の手段や収入は合法的で正しいやり方で行われ、それによって得た利益は社会に正しく分配するようになるのです。

イスラームにおける富の社会への還元と分配は、ザカートとサダカです。ザカートは義務であり、サダカは自発的なものです。ザカートが正しく行われるならば、社会の差別と貧困を抑制する大いなる力となり、他人に対して互いに愛と尊敬の心を持ち、他人の幸福に関心をもつ人びとの社会を作り上げてゆくでしょう。

ザカートを人に与えることは、優越感とは全く関係がありません。それはサラート(礼拝)と同じく信仰に基づいた義務であり、ザカートを支払うことによって、その人はムスリムとしての行ないを果たしたことについて至高なるアッラーに感謝し、自分の罪の赦しを願って至高なるアッラーに祈らなければならないのです。

ザカートの支払いが義務となる人

      ザカートの支払いが義務なのは、成人の男女ムスリムで、ニサーブに相当する金額の財産をイスラーム暦で一年間所有していた人です。

ニサーブ

    ニサーブというのは、ザカートが義務になる最低余剰財産のラインのことで、これ未満の財産しか持っていない人にはザカートは義務ではありません。つまり収入がいくら多くても、必要経費や生活費が高くてお金が残らない場合、ザカートは義務にはならないのです。

ニサーブの計算方法

ニサーブの計算方法は、金87,48グラムの時価か、銀612,36グラムの時価どちらか低い方をとります。イスラーム暦は太陰暦なので、一年は通常私たちが用いる西暦より短いので注意が必要です。ザカートを払う人は自分で任意に決算日を決め、そこから一年さかのぼって計算しますが、多くの人はラマダーン月を決算日にしています。

ザカートの支払いが義務でない人

    ザカートはイスラームの多くの決まりと同様、能力のない人には義務ではありません。そこで次の人はザカートを支払う必要はありません。

 (ア)         財産がニサーブに満たない人

(イ)          正気を失っている人

(ウ)         未成年

ザカートの計算

 何にザカートがかかるか

ムスリムの財産のうち、ザカートの義務が発生するのは以下のような財産です。以下の財産をニサーブ以上1年間所有していた人は、その財産に対し、ザカートを支払わなければなりません。

(ア)         現金

(イ)         金および金製品

(ウ)         銀および銀製品

(エ)         在庫商品

(オ)         家畜

(カ)         農作物(収穫毎)

ザカートの義務がないもの

 (ア)家庭用品あるいは個人の物品(例えば家、衣服、食器、家具、自動車、パソコン、電話機、本など)

(イ) 商売目的以外の物品(例えば借りている事務所、商用車、事務機器)

ザカートの計算は別表のようにされていますが、それぞれの計算については、ムスリムの学者、あるいはイスラミックセンターへご相談ください。

 

ザカートを受ける資格のある人

ザカートを受ける資格のある人について、クルアーンでは次のように述べられています。

施し〔サダカ〕は、貧者、困窮者、これ(施しの事務)を管理する者、および心が(真理に)傾いてきた者のため、また身代金や負債の救済のため、またアッラーの道のため(に率先して努力する者)、また旅人のためのものである。これはアッラーの決定である。アッラーは全知にして英明であられる。(クルアーン第9章60節)

ですから、ザカートを受ける資格があるのは次のような人々です。

(ア) 貧困者:自分と家族を支えるだけの充分な財産を持たない者

(イ) 羅災者:災害のために財産を失ってしまった者

(ウ) ザカートを集めて管理する者:この仕事にたずさわる人の賃金はザカート基金から支払われます。ある学者の見解では、イスラーム国家の国税庁や公共団体の職員は、これに含まれます。

(エ)イスラームへの改宗者:イスラームに改宗したために財産を失った者は、当然救済され、きちんとした生活に立ち直るように助けられるべきです。

(オ)自由を束縛されている者:ムスリムの人質や戦争捕虜を釈放する身代金の支払いが含まれます。

(カ)債務者:合法的な必要経費がかさんでできた債務の返済が出来ずに困っている者。しかし、大げさな結婚式や、その他自分の見栄や浪費によってできた債務の返済には当てはまりません。

(キ)旅行者:イスラームの布教、学間の修得、商売などの正当な理由で自分の住まいを離れた地で困っている者は、この部類に入ります。ザカートは、この種の救済活動を行っている福祉団体に対しても支払われます。

(ク) 至高なるアッラーの道に奉仕する者:これはもっぱらイスラームの布教活動を行なう人や、イスラームの知識を探求する学者や学生、それから社会のために有益な組織を作り改善する人、例えば病院、孤児院、教育研究所、図書館、モスク、イスラームの奉仕団体、あるいは知識の普及団体などの団体や職員を指します。

ザカートを受ける資格のない人

次の人々あるいは用途にはザカートを支払うことはできません。

(ア)         非ムスリム

(イ)          預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)の直系の子孫

(ウ)         ザカート支払者の祖父母、両親、配偶者、自分の子供、孫

(エ)         ザカート徴収人以外の給料としての支払い

(オ)         裕福な親のいる子供

(カ)          故人の借金の返済のため

(キ)         葬儀費用のため

(ク)          モスクの購入や建築のため

ザカートに関する各種の規定 

 ザカート提供者の扶養家族はザカートを受けることができません。ザカート受給者に必要以上を与えてはならないし、ザカートを受ける権利のある者も必要以上を受け取ってはなりません。政府へ支払った税金はザカートには含まれませんが、政府がザカートとして徴収している場合はかまいません。

ザカートの提供者はこの務めを実行することによって、おごり高ぶったり売名したりしてはいけませんが、もし自分がザカートを支払ったことが他人を励まし、善行への競争心をあおるような健康的なものであれば、名前を公表することも許されます。

受給者に自分のもらったものがザカートであることを告げる必要はありません。ザカートを受ける資格のある人が遠慮してザカートは受けたくないと言う場合には、その出所を特に言わないで与えてもかまいません。しかし提供者はそれをザカートと意識して支払います。

ザカートは前に述べたような個人や団体に直接に渡されます。提供者は、その相手が本当にザカートを受け取る資格があるかどうかを、出来るだけ明確に判断しなくてはなりません。イスラーム政府がある場合には、ザカートは公的機関を通して税金と同じように集められ、その分配は政府の特別部門の仕事です。しかし非イスラーム国でのザカートの支払いは、それぞれのムスリムが自分の責任で支払う義務があります。

日本でザカートを支払う場合、個人が自分で貧しい人などを探したり、他のムスリムからの紹介してもらったり、あるいは自分の信頼するイスラーム団体がザカートの分配を行っている場合、その団体に任せるという方法があります。

どのようにザカートを支払うか

    ザカートを支払うときには、ニーヤ(意志)が必要です。もしニーヤなしにザカートに相当するお金を払ったり施した後で、あれはザカートだったことにしようと考えた場合、そのザカートは無効です。もしザカートを支払った後でザカートを払うべきではない相手に施してしまったと気がついた場合、そのザカートは有効です。ザカートを支払うときは施された相手にそれがザカートであることを告げる必要はありません。

サダカ

    ザカートは経済的に余裕のあるムスリム男女に課せられた一つの義務ですが、サダカはその他のあらゆる慈善行為をさします。私たち人間が持っているものは全て至高なるアッラーの恵みであり、その中から金銭や自分の能力を提供して他人を助けることは人間の務めです。至高なるアッラーはクルアーンでこう述べています。

あなたがたは愛するものを(施しに)使わない限り、信仰を全うし得ないであろう。あなたがたが(施しに)使うどんなものでも、アッラ―は必ず御存知である。(クルアーン第3章92節)

さらに何を慈善の為に使うかについて、至高なるアッラーは次のように語っています。

何を施すべきかをあなたに問うであろう。その時は「何でも余分のものを」と言ってやるがいい。(クルアーン第2章219節)

そして施し方については、それを受け取る人の人格が傷つかないように気を配り、匿名で施したり、自分の行為を見せびらかしたり高慢になったりしないように注意するべきです。至高なるアッラーはこう語っています。

信仰する者よ、あなた方は人々に見せびらかすため、持物を施すように、負担侮辱を感じさせて、自分の施しを無益にしてはならない。(クルアーン第2章264節)

親切な言葉と寛容とは、侮辱を伴う施しものに優る。アッラーは富有にして慈悲深くあられる。(クルアーン第2章263節)

施しをする相手は、まず自分の家族、扶養者からはじめて、親族、孤児、貧しい人、困っている人、未亡人、債務者、旅行者、至高なるアッラーの道の布教者、そして最後に、救助を必要とする一般人に対するように拡大してゆくものです。至高なるアッラーはこう語っています。

かれらは、如何に施すべきか、あなたに問うであろう。言ってやるがいい。『あなたがたが施してよいのは両親のため、近親、孤児、貧者と旅路にある者のためである。本当にアッラーはあなたがたの善行を、何でも深く知っておられる。』(クルアーン第2章215節)

おまえたちの財産の良い活用は、心を痛めながらも至高なるアッラーの道のために国内を歩き回ることのできない貧しい者のために使うことである。彼らは控えめであるから、知らない者は不足がないと考える。おまえたちは彼らの頼むに足る様子で知らねばならない。彼らはしつこく人々に請わない。おまえたちが使う何でも良いものを、至高なるアッラーは必ずご存知である。 (クルアーン第2章273節)

最後に、より広い見地からして、慈善の意義は援助を必要としている者に対して与える金や物だけに限らないことが強調されています。それは他人を助けるためにする行為や言葉のすべてを含んでいます。例えば時間、労力、利害関係、同情心、援助の気持ち、親切な言葉なども含まれます。他人が必要としていることに良く気を配り、病人を見舞い、葬儀に参列し、近親者に死なれた者を慰めること、また、笑顔で人に接すること、これらすべてが慈善の行為なのです。

この慈善行為を通して、私たちが真のイスラーム友愛精神を成し遂げることができるよう、至高なるアッラーのお導きがありますように。