人々をイスラームへと改宗させているものは何なのか(前半)

宗教的信仰の性質は、とても不思議なものです。その宗教的信仰として、人々は様々な神々を信じます。不可視なる究極的力への信仰を持つ人々や、人間や動物、炎、偶像だけでなくその他様々なものを神として崇める人々もいます。

宗教的信仰を持つことには、多くの事柄が要因付けられます。その一つとしては、世代を超えて受け継がれてきたものがあります。人々のアイデンティティはそれに基づいたものとなります。多くの場合、それらの信仰と関係する感情は、理性や合理的議論によって完全に実証の出来るものではありません。それは正しいものでも間違っているものでもなく、宗教的信仰の性質は、単に時代と共にそうなってしまったのです。

ほぼすべての人々は、自分たちの持っている信仰・信条が正しいものであると思っています。同じ信仰を持つ者同士と一緒にいることは、たとえ論理的議論が時としてそのすべてを説明出来ずとも、人の信仰をさらに強め、それが正しいものであると思い込ませます。これは単純に、人間の心理がそういうものであるからです。

知的議論に基づいたイスラームの主張

しかし、イスラームという宗教はそうした状況とは異なっているとムスリムは信じます。他の諸宗教と同様、そこには理性によって完全に説明出来ない側面はあるにしろ、人類全体に語りかける神の言葉であるクルアーンの文章は、信仰者の信仰心を強化させるためのものだけでなく、非信仰者が人類全体の生き方としてのイスラームそのものの真正について考えさせるための知性、批判的思考、熟考プロセスを用いるものである、と議論することは出来るかもしれません。完全に論理と理性に基づいた宗教的信仰というものは存在しないものの、イスラームとクルアーンはその教えの正当性を、実証と知識のレンズを通し、真実を検証する例と機会を与えます。

批判的思考と熟考が、人の人生を変える大きなきっかけであることに異論を唱える人は(ムスリムであるかどうかに関わらず)いません。批判的思考が、多くの人々によって人生の向上のために使われてきたのは、ただ単に、批判的思考者は特定の状況についての核心的質問をし、可能な限りの情報を集め、収集・創出されたアイディアを手元にある情報の文脈を元に熟考し、先入観・偏見なき姿勢を保ち、仮定を慎重に吟味し、代替案を探るからです。

それゆえ、イスラーム改宗の理由を尋ねられた新ムスリムが、知的作業、熟考、批判的思考を改宗の原因とするのはそのためなのです。そうした人々は、メディアによって創出されたヒステリーには影響されず、イスラームを批判的思考によって考察し、上記のようなプロセスによって真理を受け入れるのです。反イスラーム的報道の蔓延における、改宗者の増加を、それ以外にどう説明出来るでしょうか? また、非ムスリムの宣教師たちが、過去に見ない程にイスラームに改宗をしているのは、どうしてでしょうか? 私たちはムスリムとして、導きはアッラー以外にはないことを信じていますが、神によって授けられた知的能力を駆使することは、改宗ムスリムにとって運命を変える決定をする役目を与えるのです。そして、改宗した彼らが元の宗教に戻ることが殆ど無いのは、論理と理性に基づいた信仰は、単に儀礼・儀式のみに基づいたものに比べて否定の余地が少ないからです。

改宗の原因

なぜ改宗したのかと尋ねられた際、新改宗者たちが答える原因の中には、クルアーンの言語の卓越性、またそこにある科学的事実とその証拠、知性に基づいた議論、そして様々な社会問題の裏に潜む神の叡智などが挙げられます。クルアーンの文章の独自性と美は、それが啓示された日から今日までに渡り、ムスリム・非ムスリムを含むアラビア語言語学者たちを驚愕させてきました。アラビア語の知識が深ければ深い程、人々はクルアーンの奇跡と文体の流暢さの価値を認め、称賛します。1400年以上も前に啓示されたクルアーンの中には、近年になって発見され、その真実性が証明されたような、数々の科学的事実が含まれています。さらに、クルアーンは人類が創造全体、社会問題、神の存在などについて考えをめぐらせ、熟考することを呼びかけることが知られている、唯一の宗教書なのです。クルアーンは多くの場面において、人々が根拠なき批判に依拠するのではなく、自らの頭脳を駆使して考察することを促します。そしてクルアーンは、あらゆるレベルにおける社会的混乱を誘発する、多くの社会問題・逸脱に対する解決策を提供するのです。

クルアーンは、究極の存在による自信に満ち溢れた主張です。それは、宇宙の創造から社会的環境における特定の要素に渡るまで、神があらゆる問題について語る、唯一の宗教書です。さらに、この神の書物(クルアーンの言語と散文)は、預言者ムハンマドによる発言から見られる言語とは大きく異なっており、多くの懐疑論者たちが過去に主張してきた、そして現在もそうし続けているような、「クルアーンは預言者ムハンマドによる空想の賜物」や、「彼の著作」だといった主張を覆すものなのです。

これらの大半の理由は、批判的思考と知的考察の過程のみによって帰されることが分かります。しかし、その探求は情熱のこもったものでなければならず、単なる理性だけでは事足りません。それは、真実の核心を突くことを目的とされたものなのです。そういった誠実な人々が初めてクルアーンを耳にしたとき、そしてそれを理解したとき、次のように言うことは、少しも不思議なことではないのです。

 “本当にこれは主から下された真理です。わたしたちはこれを信じます。わたしたちはこの(下る)以前からムスリムであったのです。”(クルアーン28:53)