女性の地位向上(5/5):根本的相違

それでは最後に一つコメントをして、質問を受け付けることにします。これらの二つの見解の適用性について考えてみましょう。今日は多くの概念、思想、信条や歴史的事実が紹介されましたが、それらが実際に適用された場合、これら二つの見解のどちらが成功するでしょうか?それらのどちらが人類に幸福をもたらすでしょう?西洋による世俗的見解か、またはイスラーム的見解のどちらでしょう?こういう具体的な例えがあります。昨年の夏、私が北京で行われた国連の第四回女性会議に参加した際、様々な国家や団体によって、行動を起こすための公開討論会が行われていました。その行動の目的とは、世界中の女性の地位を高揚、向上させるためのものであり、もちろんそれは意義のある正しい目的で、それに反対する議論の余地はありません。その行動は、貧困、健康、経済、紛争、暴力などの様々な分野に分かれており、その中には女児の分野がありました。行動の12分野の12番目は女児に関するものであり、現代世界の女児、つまり将来の女性の地位についてのものでした。この会議を開いた国は、幼女殺害の習慣を持つことで知られる中国です。その原因は人口抑制によるものです。中国人夫婦は子供を一人だけしか作ることを許されておらず、中国では伝統的に男児の方が女児よりも稀少であると見なされることもあり、彼らは男児の誕生を望んで女児を殺すのです。

この問題は今も存在しますが、ホスト国が中国であったために国連はこの問題について深入りしませんでしたし、ほとんど議論もされませんでした。なぜならこの問題を中国で議論することは政治的に正しくないとされているからです。さらに言えば、たとえ彼らが何らかの規制や行動規範、世界の市民に対する義務などを設けたとしても、おそらく最終的に25年〜50年経っても世界の子どもたちの状況が著しく改善することはないでしょう。

国連が第二次大戦後に設立された最大の理由の一つは、ヨーロッパにおけるユダヤ人を含む、多くの大量虐殺が行われたからですが、その50年後の、国連設立50周年を迎えた今でもヨーロッパではボスニアなどで虐殺が繰り返されています。あらゆる人権運動や過去50年間のすべての宣言をもってしても、殺戮を止めることは出来なかったのです。預言者ムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)がアラブ人に遣わされたとき、彼らには同じく女児を殺す習慣がありました。アラブ人がそうしたのには幾つかの理由がありますが、その大半は貧困を恐れてのものでした。産業や貿易を持たない砂漠の民にとって、日々の生活は辛く厳しいものだったのです。それゆえ彼らは貧困を恐れ、女児を生き埋めにして殺したのです。このことはクルアーンにも記述されており、預言者ムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)の時代にもよく知れ渡っていた事実でした。クルアーンにおいて、神は女児殺しや生き埋めの習慣、そしてアラブ人たちによる女児への態度を咎めています。クルアーンの一節はこう述べます:

“彼らの1人に、女(児の出生)が知らされると、その顔は終日暗く、悲しみに沈む。彼が知らされたものが悪いために、(恥じて)人目を避ける。不面目を忍んでそれをかかえているか、それとも土の中にそれを埋めるか(を思い惑う)・・・(クルアーン1658−59

この節ではそういった習慣が非難されています。同様に預言者ムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)の多くの教友たちも、イスラームを受け入れる前には娘たちを殺していました。ある男が預言者ムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)を訪れてこう訪ねたことが伝えられています:私は人生において10人もの娘を殺してしまいました。私は天国に入れるのでしょうか?偶像を崇拝し女児などを殺していた過去の多神教を棄て去った後、神はこの罪に対する私の悔悟をお受け入れになるでしょうか?”23年間の年月(預言者が宣教した期間)という一世代において、女児殺しの習慣は終焉し、アラビア半島から消え去りました。また、単にそれだけでなく、あらゆる面における女性への態度も変化したのです。

来世において、人々には天国の報奨以外ありません。繰り返しますが、これこそがムスリムにとっての最高の目標であり、彼らにとっての意欲であり、そして存在意義でもあるのです。したがってイスラームは、人々が自らの子供を殺すという負の要素を払拭しただけでなく、同時に社会において少女を教育し、養育するという正の要素ももたらしたのです。ここで今日の最後の点を挙げることにします。人権はもちろん、それが正しいかどうかに関わらず、過去の人権宣言によってその内容を目にすることは出来ますが、ボスニアにおける大量殺戮の例からも分かるように、結局は宣言された目的を果たすことが出来なかったのです。

最後に、イスラーム文明は他の文明と違い啓示を基に成り立っていますが、それは女性による支持をもって基礎が構築されているのです。預言者ムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)を信じた最初の人物は、彼の妻ハディージャであり、彼女の富と支持、そして激励によって預言者はその使命の初期にイスラームの教えを広めることが出来たのです。多神教徒たちは信教の自由という概念を持ち合わせていませんでした。そういったことはアラビア半島の多神教徒たちによっては実践されていなかったことであり、彼らはこれを反逆、または伝統の破壊であると見なし、拷問や殺人など、あらゆる手段をもって阻止しようと試みました。同様に、預言者ムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)がアラビア半島の人々に宣教し始めた際、彼らはイスラームの啓示をなんとしても止めようとしたのです。しかし、ムハンマドによる教えが広まった結果、現在の世界には10億人以上ものムスリムが存在します。彼らは世界中のあらゆる大陸に居住し、国連会議の開かれた北京においても見出すことが出来る程です。そこには1000年以上の歴史を持つモスクもあります。このことはイスラームの広まりとその精神が、アラビア半島または中東だけに留まるものではなく、世界中のあらゆる人々、あらゆる人種に受け入れられたものであることを示しているのです。

この教えは一体どこから来たのでしょう?もちろん、預言者ムハンマド(彼に神の慈悲と祝福あれ)がイスラームの宣教開始から23年後に逝去した際、イスラームの広まりはアラビア半島内のみに留まっていました。イスラームが広まったのは預言者に近かった4,5人の功績によるものが大きいのです。その一人は、預言者の妻アーイシャでした。彼女は預言者の伝承を最も広めた者の一人であり、また宗教的意見を述べ、宗教的な裁定を下し、クルアーンの章句や預言者の言葉の注釈などを多く行った3〜5人のうちの一人でした。

人類の歴史におけるどの文明を見渡しても、女性がその成立のために努力し、重要な役割を果たしたものを見出すことは非常に稀です。プラトン、アリストテレスなどの著名なギリシャ人哲学者らは、皆男性でした。初期教会の父祖らによる書物は男性によって書かれ、現在でも女性が学問を修めることは、一部の教会では珍しいことなのです。フランス革命におけるフランス人作家たち、ボルテール、またロシア人たちも皆男性でした。アメリカ合衆国を築き上げた「建国の父」たちも、皆男性でした。イスラームこそは、人類に知られている文明のなかで、その伝播と成立において女性が貢献し活躍を見せた唯一の文明なのです。預言者の教えを広めたこれらの人々はその後も支持を続け、このことは他の解釈を許さない、歴史的事実なのです。そしてこれはイスラームがいかに女性を高揚させたかに関するほんの一部の見解、痕跡に過ぎないのです。