最後の審判

5.最後の審判

最後の審判を我々は信ずる。それは復活の日であり、その日の後にはもはや日々はない。そのとき人々は至福の住処(楽園)か、苛酪な懲罰の住処(火獄)に永遠に住むために蘇らされるのである。復活を我々は信ずるが、アッラーは(天使)イスラーフィールがラッパを2度目に吹き鳴らしたときに死者を蘇らせ給う。

『ラッパが吹き鳴らされると、天にあるものも地にあるものもアッラーの御心に適った者以外は意識を失う。そしてもう1度吹き鴫らされるとき、彼らは起き上がり辺りを見回す。』 (クルアーン第39章〔集団〕68節)

人々は万世の主に見えるために墓から蘇るが、そのとき人々は裸足で服も着ず、また割礼を受ける以前の状態である。

『最初の創造を始めたように、我ら(アッラー)は再びそれを繰り返す。それは自らに約束したことである。まことに我らは必ず約束を成就する。』 (クルアーン第21章〔預言者〕104節)

また、自分たちの行状を書き記した帳簿を右手か左手、あるいは背中に受け取ることを我々は信ずる。

『右手に帳簿を渡される者はその清算も素早く片付き、喜々として己の家族のもとへ戻り行く。他方、背中に帳簿を渡される者は燃え盛る炎に焼かれ、いっそ早く燃えつきたいと叫ぶ。』 (クルアーン第84章〔割れる〕7-12節)

『我ら(アッラー)はすべての人間の首に「予兆」を付した。復活の日、我らは彼に開け広げた帳簿を示して言う。「汝の帳簿を読むがよい。今日、汝自身の裁き手としては、汝の魂だけで十分であろう。」』 (クルアーン第17章〔夜の旅〕13-14節)

また、復活の日には「秤」が据えられ、誰も不正に扱われることはないことを、我々は信ずる。

『塵一粒程の善行でも行った者はそれを見ることになろう。また塵一粒ほどの悪事でも犯した者はそれを見ることになろう。』 (99章〔地震〕17-8節)

『秤が(善行で)重い者は成功者である。秤が軽い者は自らを滅ぼした者である。彼ら火獄に永劫に留まり、業火に焼かれ顔を歪める。』 (クルアーン第23章〔信者たち〕102-103節)

『善行を為した者はその10倍の報奨を受けるが、悪行を為した者は等倍の報いを受けるのみで不正に扱われることはない。』 (クルアーン第6章〔家畜〕160節)

また、アッラーの使徒(ムハンマド)は最高の執り成しを行う権能が授与されていることを、我々は信ずる。耐え難い不安と苦悩に襲われて人々はアーダム(アダム)、ヌーフ、イブラーヒーム、ムーサー、イーサーの許を訪ね、最後にアッラーの御使いの許に来るが、彼だけが至高なるアッラーの御許でその御許しを得た上で特別な執り成しを行い、それらの者を裁くのである[xiv]。

また、火獄に投げ込まれた信者を救い出す執り成しがあることを我々は信ずるが、それが出来るのはムハンマドとその他の預言者、信徒たち、および天使である。

また、至高なるアッラーは誰かの執り成しによってではなく、ただ彼の恩寵と慈悲から信徒の民を業火から救い出し給うことがあることを我々は信ずる。

また、アッラーの使徒の「湖」の存在を我々は信ずる。その水は乳よりも白く蜜よりも甘く麝香の香りよりも芳しく、幅と長さは1ヵ月の旅程に相当し、(そこに備えつけられた)器は天の星の如く無数で美しい。彼(ムハンマド)のウンマの信徒がそこにやって来るが、その湖から水を飲む者はもはや渇くことはない[xv]。

また、火獄に架かる「道」の存在を我々は信ずる。人はそこを生前の行いに応じた速度で渡る。最初の者は稲妻の如く、続く者は風の如く、またそれに続く者は烏の如く、そして走るが如くに通り過ぎる。預言者が「道」の上に立ち、「主よ、救い給え、救い給え」と祈るうちに、善行が足りない者の番となる。這った者がやって来るが、「道」の両側には命令によって吊り下げられた鉤が在り、命じられた者を吊り上げる。傷つきながらも救われる者もいれば、火獄に積め込まれる者もいる[xvi]。

また、クルアーンとスンナの語る審判の日とその恐怖の物語を我々はすべて信ずるが、アッラーはそれらのものから我々を護り給う。

我々は、楽園の民が楽園に入るために預言者が執り成しをされることを信じるが、この執り成しは彼だけに与えられた特権である。

我々は楽園と火獄を信ずるが、楽園とは至高なるアッラーが敬虔な信徒のために用意された、かつていかなる目も見ず、耳も聞かず、誰の心も思い浮かべたことのない至福を味わう安楽の住処である。

『自分の行ったことに対する報奨としていかなる善きものが密かに用意されているかを誰も知らない。』 (クルアーン第32章〔サジダ〕17節)

火獄とは至高なるアッラーが不正な不信仰者のために用意された懲罰の住処であり、そこには誰も想像したことのない苛酷な懲罰がある。

『我々は不正を犯した者のために、彼らを覆い尽くす業火を用意した。彼らが助けを求めても、溶けた真鍮の如き液体が与えられよう。なんと悪い飲み物、臥し所であろう。』 (クルアーン第18章〔洞窟〕29節)

楽園と火獄は共に現存し、また永存する。

『アッラーは彼を信仰し善を行う者を川の流れる楽園に入れ給い、彼は永遠にそこに留まる。こうした者にはアッラーは善き恵みを垂れ給う。』 (クルアーン第65章〔離婚〕11節)

『アッラーは不信仰者を呪い、彼らのために燃え盛る炎を用意された。彼らはその中に永遠に留まり、助けを乞うべきいかなる保護者も見いだすことは出来ない。その日、炎に彼らの顔は歪み、「ああ、アッラーと使徒に従っていればよかった。」と言うことになろう。』 (クルアーン第33章〔部族連合〕64-66節)

また我々は、クルアーンとスンナが名指しで、あるいは特徴描写によって楽園に入ると証言している者が楽園に入ることを信ずる。

名指しによる証言とは、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーら[xvii]、預言者が(楽園に入る者として)名前を挙げた者たちに対する証言であり、特徴描写による証言とは「信仰者」、「敬度な者」一般に対するものである。

また我々は、クルアーンとスンナが名指しで、あるいは特徴描写によって火獄に堕ちると証言している者が火獄に堕ちることを信ずる。

名指しの証言とはアブー・ラハブ[xviii]やアムル・ブン・ルヒーユ・アル=フザーイーなど[xix]であり、特徴描写による証言とは「不信仰者」、「重度の偶像崇拝に陥った多神教徒」、「偽信者」一般に対する証言である。

我々はまた、墓の中での審問を信ずる。つまり死者は墓の中で、「お前の主は誰か、宗教は何か、預言者は誰か。」と審問されるのである。

『アッラーは現世においても来世においても確かな言葉を語れるよう、信ずる者を支え給う。』 (クルアーン第14章〔イブラーヒーム〕27節)

そのとき信徒は、「私の主はアッラー、宗教はイスラーム、預言者はムハンマドです。」と答えるが、不信仰者や偽信者は、「私には分かりません。私は人々が何か言っているのを聞いて、口を合わせていただけです。」と言う。

我々はまた、信徒の墓の中での享楽を信ずる。

『天使は清らかに死なせた者に「平安あれ。汝らの行ったことのゆえに天国に入れ」と言う。』 (クルアーン第16章〔蜜蜂〕32節)

我々はまた、不正を犯した者の墓の中での責め苦を信ずる。

『断末魔の苦痛に喘ぐ不正を犯した者たちに天使が手を差し延べ、「今日、汝らの魂を差し出せ。アッラーについて虚偽を語り、その徴に傲慢な態度を取ったことに対して恥ずべき報いを受けるが良い。」と言うのを、汝らが見ていたならば(良かったのに)。』 (クルアーン第6章〔家畜〕93節)

この問題については多くのハディース(預言者の言行録)が伝えられており、我々信徒はクルアーンとスンナが幽玄界の事象について述べていることをすべて信じねばならず、現世の経験を基準にそれを否定することは許されない。なぜなら来世の出来事は現世の出来事とは全く異なり、類推が不可能だからである。アッラーにこそ、我らは助けを求め奉る。